on-ordの日記

土木遺産など、出先で見たもののメモです。

旧々くすの木橋(岡山県倉敷市水島高砂町)

県道428号倉敷西環状線、五福小学校西交差点を通っていると南にこの橋が見える。橋は八間川に架かっているが、前後につながる道はない。橋の正式名称は不明。

f:id:on-ord:20210213212723j:image

この川が流れているところはかつて東高梁川があったところ。

f:id:on-ord:20210605114620p:plain

地理院地図をもとに作成

廃川地を開墾していく中で建設

高梁川倉敷市酒津のあたりで分岐し西高梁川と東高梁川に分かれ河口へと注いでいたが、明治44年から大正14年にかけての改修工事により、酒津で締切られて東高梁川は廃川となった。

これにより生まれた廃川地は竣工後から昭和2年までの間に調査、整理が行われた後、開墾地として払い下げられて昭和3年頃から農地化されていった。

昭和4年ニ月「高梁川廃川地耕地整理組合」が結成され国の助成を得て、水路、道路、土地の高低の整理が着工されているが、なにぶん400町にわたる造成が完了したのは昭和7年であるから、初期入植者は収入源になる作付は出来なかったわけである。(東川町史 p.8)

東川町はこの橋より2kmほどの上流の廃川地の地区。

この頃に、もとの東高梁川の河川敷の中央線を貫くように掘削されたのが八間川で、この廃橋も昭和初期に架けられたものと思われる。

高梁川は昔備前と備中との境で、昭和に入って造られた八間川も、昭和28年まで児島郡福田と浅口郡連島の境だった(昭和28年倉敷市に合併)

 

工場誘致に伴う区画整理により廃止

その後戦時中の昭和16年、この廃川地に航空機工場が設置されることが決定し、都市計画が進められた海軍省が設置、三菱重工業が運営する官設民営の工場)。この土地区画整理の中で橋の前後の道も消失した。なので橋として現役だったのはわずか10年ほどのことだったようだ。

なお、この時架けられた橋も交差点のロータリー化に伴い昭和30年前後に架け替えられているようだ(ロータリーも現在は解消)。これまた10年ほどしか現役でなかったといいうことか。よって廃橋は世代的には旧々ということになる。

現在、五福小学校西交差点に架かる橋は「くすの木橋岡山県道路橋維持管理計画を見ると、所在が西隣の水島明神町となっているものの倉敷西環状線、延長7.9m、幅員74.4mとあるので間違いないと思う)なのだけど、この橋はロータリーの上り車線側と下り車線側の別々の二つの橋だったものの間をつなげ一つとしたもの。親柱を見ると、南側のものは「くすのきばし」「昭和三十年三月竣工」、北側のものは「志おみはし」「昭和二十九年二月竣工」というようになっている。橋の銘板はとれており正式名称は不明なので、便宜上旧々くすの木橋とした。

f:id:on-ord:20210213213451j:image

廃橋から交差点を見る。交差点の手前側の橋がくすの木橋、奥側がしおみ橋。

f:id:on-ord:20210213213113j:image

旧しおみ橋より交差点を見る。一つのものすると幅員は大きい。実際車が通っているのは橋の間の暗渠のところで、この二つの橋も交通には使われていない。

f:id:on-ord:20210213213119j:image

くすのきばしとある。

f:id:on-ord:20210213213424j:image

川の中央のコンクリート壁は、酒津にあった倉敷人造絹糸(クラレ酒津工場、今はイオンモールがあるところ)からの排水を分けるためのもの。もともとは川の東側土手へ土中のダクトを通していたものが、昭和48年頃から行われた川の岸の改修工事によってこのようになった。

f:id:on-ord:20210213213416j:image

封鎖はされていないものの、路面の高さから明らかに違和感がある。

f:id:on-ord:20210213213429j:image

旧道の方が現在の路面より高いというのは珍しいように思う。堤の高さがもう少しあったのだろうか。

【参考文献】

「水島のあゆみ」昭和46年 岡山県発行

「東川町史」昭和61年 東川町史編集委員会

「水島の戦災」昭和61年 倉敷市発行

撮影:2021/2/4